なぜ悪魔は肉体を持ち人間は肉体を持たないのか?
聖書によればサタンは神を超越したいと野心を抱いて世に投げ落とされ、またそれに同調する1/3の天使も投げ落とされたと思われる表現があります。
また、アダムとイブ(人間)は知恵の果実を食べて世に追放されたと記されています。
そんな神話じみた絵空物語を誰が信じるんだよ、気は確かか?
と世の人々は思うのかもしれません。
まあ聞いてください。
同じ世に落とされた堕天使達と人間。
この二つには実は大きな違いが有ります。
それは何でしょう?
堕天使は霊体のまま世に投げ落とされ人間は肉体を持って投げ落とされたのです。
これは大変な違いだと思いませんか?
じゃあ肉体とは何だろう?
ここに重要な意味が隠されている様な気がしませんか?
ちなみに聖書ではイエスに出会った悪霊憑きは皆相手が神の子であると一目で見分けたと記述にあります。
しかし人間はイエスが誰なのか最後まで分からず十字架にかけてしまいました。
何故でしょう。
神は何故人間をそのような状態に閉じ込めたのでしょうか?
私達がこの世に生きている重要な意味としてよく考えてみる必要がありそうです。
ヘブライ人への手紙 10:1-39
あなたは、いけにえや献げ物を望まず、むしろ、わたしのために体を備えてくださいました。あなたは、焼き尽くす献げ物や罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。そこで、わたしは言いました。『御覧ください。わたしは来ました。聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、神よ、御心を行うために。』」
人間の体は絶縁体ではなく半導体
これは霊的な話です。
人間は目に見えるものしか存在しないと思いがちですが、見えないからといって存在を捉える事ができない訳ではありません。
そういう意味では絶縁体ではなく半導体みたいな感じと考えると分かり易いかもしれません。
だから知らず知らずにうちに見えない世界からのメッセージを受け取っていたり感じていたりする事があります。
先述した通り、見えない世界にも良い霊と悪い霊が存在するので、悪い霊のそそのかしを迂闊に聞いてしまうと魂のレベルが著しく低下し、重度の憑依を受けてしまう事があるので要注意です。
お酒を飲んで急に人が変わる人、運転すると急に荒くれ者のようになってしまう人も悪い霊の干渉を受けている可能性が高いので注意しておいた方が良いと思います。
統合失調の様に色々な声が聞こえてしまう人もいます。
良い霊は自分を助けようとしてくれますが人間には自由意志が与えられているので、悪い方へ付いていく人を引き止める事は出来ない決まりになっています。
何故なら自由意志で悪い方へ行こうとする人を助ければ、世に投げ落とされた堕天使達がそれを言いがかりに天国に強引に戻ろうとするからです。
良い霊は求めればヒントをくれますが模範解答は与えてはくれません。
それが私達がこの世に居る間のルールだったりするのです。
マタイ11:12
天の国は力ずくで襲われており、. 激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。
自殺は有りか?無しか?
どうですか?
道徳的な理由で自殺がダメな理由もいくら考えてみたところで、例えば家族や他人に迷惑がかかるとか、多分そのくらいしかダメな理由は見当たらないのが本当のところだと思います。
本人がもうこんな世の中嫌だ!逃げ出したい!と、その苦しみがマックス達している人に思い留まらせる言葉は多分ないでしょう。
しかし、これは死後の世界が存在しない。という前提での話です。
死んだ後が(無)であるならば早く死のうが100まで生きようが無でしかない。
と、いう事になりますよね?
結果が同じなら早く終わらせたって良いんじゃないかという考え方にもなります。
じゃあ終わりじゃなかったら?
終わりじゃなかったらどうしますか?
死んだ後の世界が存在するなら、今この世に生きている意味は有るという事になりはしませんか?
死んだ後の世界と今生きてるこの世の世界が同じなら、創造主があえて世界を分ける必要はなかったはずです。
この世に存在する意味があるなら、今我々がこの世界に生きている意味もあるはずです。
それはお金持ちになる事でも、地位や名誉を築く事でもありません。
何故なら死んだ後の世界にそれらの物は何一つ持っていける訳ではないからです。
何でそういう構造になっているのか考えて見ると生きている意味が見いだせるかもしれません。
ヨハネの手紙一 2:14-17
世も世にあるものも、愛してはなりません。世を愛する人がいれば、御父の愛はその人の内にありません。 すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、見栄を張った生活は、御父から出たものではなく、世から出たものだからです。 世も、世の欲も、過ぎ去ります。しかし、神の御心を行う者は、永遠にとどまります。
キリスト教はなぜ八百万の神を否定するのか
キリスト教、ユダヤ教、イスラム教は砂漠地帯の荒野で生まれた宗教であり、厳しい自然状況で生まれた感性が結果的に排他的な一神教に結びついた。
一方、豊かな自然環境で生まれた宗教は人々に精神的なゆとりがあって、寛容性のある八百万の神崇拝へと結びついでいるのだと。
そういう意見もあります。
しかし実のところ聖書における大半はアメニズム崇拝つまり八百万の神崇拝を改めさせようとする預言者と時の王や市民たちの戦い話だったりします。
どちらかと言うと、いやはっきりいって預言者の方が圧倒的に弱者であり、時の王様や民間人の方が圧倒的に力を持っていたりしたわけです。
実際、預言者達はことごとく迫害され、殺されたり鞭打たれたりしてきました。
要は中東にもしっかりとアメニズム信仰は土着の宗教として根付いており、それを見ても自然環境云々で一神教が生じた要因と片付けるのはちょっと無理がありそうです。
じゃあ八百万と一神教の神の何が決定的に違うのか。
何が問題となっているのか。
八百万とは土着の神、つまりそれぞれの地域に住まう霊の事を指します。
この土着の霊は確かにある一定の力を持っていたりします。
商売繁盛やその人のこの世の人生を楽なものにしてくれるかもしれません。
しかし、私達の肉体はやがては朽ち果て霊は体を離れなければならず、この地にとどまる事はできないのです。
我々は生きている間、特に若いうちはその自分に必ず起こるはずのプログラムの終着点をつい忘れてしてしまいがちです。
一神教の神とは天の神。
つまり私達の霊が肉体を離れた世界を統べる神の事を指します。
預言者は霊の話をし、時の王や民間人は世の話をします。
だからなかなか話が噛み合いません。
それは多分今も同じだと思います。
しかも世の霊は天の世界の話や霊の話をされるのをとても嫌います。
だから預言者達はことごとく迫害されてきました。
何故嫌うのか、またアメニズム・八百万の神はもともと何処から来た霊なのかは話が長くなりそうなのでまた次の機会にしたいと思います。
天国という状態について考える
自分にとっての天国的な状態とはどういったものでしょうか?
考えてみましょう。
美味しいものが何でも好きなだけ食べられる。
お金がじゃんじゃん入ってくる。
好きなブランド物がいくらでも手に入る。
イケメンな男子、もしくは可愛い女の子がいっぱい居て皆が自分にちやほやしてくれる。
挙げてみれば枚挙に遑がないかもしれません。
さて、ここで一度考えてみてください。
これら挙げた言葉の上に「永遠に」という枕詞が付いたとしたらどうですか?
永遠に美味しいものを食べ続ける。
永遠にブランド物が自分の手元に入り続ける。
永遠に男子が全てイケメンもしくは可愛い女の子が自分の元に群がり続ける・・・。
永遠にです。
1000年も10000年も永遠にその状態が続きます。
どうですか?
そうです、これは地獄です。
日本にも餓鬼地獄、賽の河原、無間地獄と、同じ状態が永遠に続くという地獄の表現があります。
肉による喜びを渇望する事はむさぼりという状態を招き、霊の状態を低質化させる可能性があり、肉体の使用期限が切れて霊が肉体を離れた時に天国に帰る事ができない危険性があるので気をつけた方が良いです。
国連の演説で最も貧しい国の大統領が貧しい状態というのは物が無いからではなくもっともっとと渇望する心の状態が貧しいのだと説いて賞賛を浴びた事がありました。
そして実際その通りなのです。
私達の肉体はいつか死に至ります。
有限な時間の中でつかの間ここに滞在しているだけに過ぎません。
霊が肉体を離れた世界は永遠の世界に入ります。
永遠に地獄、永遠に天国。
この差はこの世の貧富の差どころの格差ではありません。
むさぼりそうになったら心にブレーキをかけましょう。
ヨハネの手紙一第2章15節
すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。
人生裁判
裁判官、検察、弁護士、そして被告人。
肉体の使用期限が尽きると皆公平に裁判を受ける事になります。
天国に行く者と地獄に落ちる者。
その人が人生において何をして何を考えてきたのか初めから終わりまで、きっちり取り調べを受けた後、自分の行くべき道を示されます。
それ故に人間は全ての人に肉体が与えられ、肉体の使用期限が尽きるまでは霊的な存在は一切何も見えなくさせられるのです。
ただ見えてはいないのですが、あなたの罪を告発する者、つまり悪い霊はあなたをつぶさに観察してあなたの内在する罪を顕在化させようと日々余念がありません。
しかし、弁護する方は肉体を持って生きた経験がある方なので肉体を持つ苦しみを理解する事ができます。
だから報われぬ境遇に生まれてきた人、知能や運動能力や外貌にハンデを負って苦しんできた人の気持ちを弁護する事ができるのです。
しかし、どうでしょう。
逆にこの世において全てに恵まれてきた人達にとっては何の情状酌量の余地がないと判断されかねない。という事にもならないでしょうか?
自発的に善業を施して裁判官の心証を良くしておく必要があるとも言えると思います。
世において恵まれた者がその身分に傲慢にならずに率先して善業を成すというのは結構なハードルとも言えなくはないでしょうか。
そう考えてみるとどちらが恵まれているのか分からなくなります。
そんなのは弱者の逃避的思考だと思いますか?
しかしそう考える人にも必ず死が訪れ裁きを行う方に会う事になるのです。
誰も死から逃れられないように裁きからも逃れられないのです。
この世の財産も地位も名誉も権力も全て取り去られます。
どうしたら良いか考えておいた方が良さそうです。
ヘブライ人への手紙 4:12
神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃よりも鋭く精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほど刺し通して、心の思いや考えを見分ける事ができます。
更に神の御前では隠れた被造物は一つもなく、全ての物が神の目には裸であり、さらけ出されているのです。
この神に対して私たちは自分のことを申し述べねばなりません。
過去のトラウマや恨みが消えない人へ
誰かを恨み続けている間、あなたはその人に支配され続けている事になります。
限りある時間をその人の恨みや怒りで費やすわけですからその時間は精神的に相手に拘束されています。
そして恨み怒っている間、あなたは自らを省みる事が出来ません。
つまり進化が止まる事を意味します。
と、霊的な話ができそうにない人にはそう説明する事にして居ます。
道徳的な観点で説得するにはそれが最も分かりやすい説明かなと思っています。
そして決して間違った事を言っているわけでもないからです。
しかし、霊的な観点から言えば捉え方は少し変わってきます。
悪い霊は小さな火種をつぶさに観察し、小さな火をウチワで扇いで大火事にさせるのが得意です。
メラメラと怒りが燃え上がり収拾できない程の暴言を吐いたり暴挙にでたり、ニュースで散見する突発的な事件にはそういった悪い霊が必ず暗躍している事を頭の片隅に入れておくとヒートアップしそうになった時に制御する事ができるはずです。
ディープにコントロールされ始めるともはやどちらが主導権を握っているのか分からない状態に陥ります。日本ではそれを憑依と言います。
良い霊の力を借りて心の汚れを洗ってもらうと嘘のようにトラウマから解放されたりします。
ペトロの手紙一 5:8 新共同訳
身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって悪魔に抵抗しなさい。