キリスト教はなぜ八百万の神を否定するのか
キリスト教、ユダヤ教、イスラム教は砂漠地帯の荒野で生まれた宗教であり、厳しい自然状況で生まれた感性が結果的に排他的な一神教に結びついた。
一方、豊かな自然環境で生まれた宗教は人々に精神的なゆとりがあって、寛容性のある八百万の神崇拝へと結びついでいるのだと。
そういう意見もあります。
しかし実のところ聖書における大半はアメニズム崇拝つまり八百万の神崇拝を改めさせようとする預言者と時の王や市民たちの戦い話だったりします。
どちらかと言うと、いやはっきりいって預言者の方が圧倒的に弱者であり、時の王様や民間人の方が圧倒的に力を持っていたりしたわけです。
実際、預言者達はことごとく迫害され、殺されたり鞭打たれたりしてきました。
要は中東にもしっかりとアメニズム信仰は土着の宗教として根付いており、それを見ても自然環境云々で一神教が生じた要因と片付けるのはちょっと無理がありそうです。
じゃあ八百万と一神教の神の何が決定的に違うのか。
何が問題となっているのか。
八百万とは土着の神、つまりそれぞれの地域に住まう霊の事を指します。
この土着の霊は確かにある一定の力を持っていたりします。
商売繁盛やその人のこの世の人生を楽なものにしてくれるかもしれません。
しかし、私達の肉体はやがては朽ち果て霊は体を離れなければならず、この地にとどまる事はできないのです。
我々は生きている間、特に若いうちはその自分に必ず起こるはずのプログラムの終着点をつい忘れてしてしまいがちです。
一神教の神とは天の神。
つまり私達の霊が肉体を離れた世界を統べる神の事を指します。
預言者は霊の話をし、時の王や民間人は世の話をします。
だからなかなか話が噛み合いません。
それは多分今も同じだと思います。
しかも世の霊は天の世界の話や霊の話をされるのをとても嫌います。
だから預言者達はことごとく迫害されてきました。
何故嫌うのか、またアメニズム・八百万の神はもともと何処から来た霊なのかは話が長くなりそうなのでまた次の機会にしたいと思います。