戦う君の歌を戦わない奴らが笑うだろう〜♪
私 本当は目撃したんです 昨日電車の駅 階段で
ころがり落ちた子供と つきとばした女のうす笑い
私 驚いてしまって 助けもせず叫びもしなかった
ただ恐くて逃げました 私の敵は 私です
ファイト! 闘う君の唄を
闘わない奴等が笑うだろう
ファイト! 冷たい水の中を
ふるえながらのぼってゆけ
これ、中島みゆきさんのファイト!という有名な曲の歌詞ですが
例えばイジメの現場を目撃していたのに止める事が出来なかったりとか
自分もイジメられる側になるのが怖くて言い出せなかったりとか
道端で具合悪そうな人が居ても忙しいからと自分に言い訳して通り過ぎちゃったりとか
電車やバスで座って居たら目の前に老人が来ても自分も疲れたるからと寝たふりしちゃったりとか・・・
それって自分の中でどう処理してますか?
仕方ない?
そうですね。確かにそうです。私もそう思います。
しかし、もし死んだ後の世界に天国と地獄があったらどうですか?
これらは罪になりませんか?
罪になります。
じゃあ徳の高い善業を積みなさいと言われてあなたは出来ますか?
もしかしたら努力ならできるかもしれません。
でも努力には限界があり無理が生じます。
そして努力すらせずに罪にすら向き合わずに自堕落に能天気に生きている人が無性に腹がったったりします。
あいつはダメな奴と他人を裁いてしまったりもします。
そしてそれすらも罪だったりします。
そう考えていくと人間の思考は罪また罪と何処をどう切り取っても金太郎飴みたいに罪しか出てこないという法則に気づきます。
さて、じゃあ私たちはそれらをどう処理したら良いのでしょう?
ローマ人への手紙7章14~25節
私は自分のしている事が分かりません。自分の望む事は実行せず返って憎んでいる事をするからです。
もし望まない事を行なっているとすれば律法を善いものとして認めているわけになります。そしてそういう事を行なっているのはもはや私ではなく私の中に住んでいる罪なのです。〜それで善をなそうと思う自分にはいつも悪がつきまとっているという法則に気付きます。内なる人としては神の律法を喜んで居ますが、私の五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い私の五体の内にある罪の法則虜にしているのが分かります私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から誰が私を救ってくれるでしょうか。
人間が自分自身で罪の責任をとれないのであれば誰かが代わりに責任をとらねばなりません。
誰が責任を取ってくれたのでしょうか?